北海道の中心都市・札幌。街を歩いていると、道路が縦横にまっすぐ延び、交差点が規則正しく並んでいることに気づきます。地図で札幌中心部を眺めると、まるで碁盤の目のような街並みが広がっています。
では、札幌の街はなぜ碁盤の目になっているのでしょうか?
その答えは、明治時代に始まった北海道開拓と、当時の人々が描いた壮大な都市計画にあります。札幌の整然とした道路には、開拓使による街づくりの構想が今も受け継がれているのです。
この記事では、札幌が碁盤の目になった理由をはじめ、街づくりに関わった島義勇や岩村通俊、京都との関係、大通公園や創成川の役割、独特の住所表示の仕組みまで、歴史と都市計画の視点からわかりやすく解説します。
札幌はなぜ碁盤の目?街並みが整然としている理由
札幌中心部の道路が碁盤の目状になっているのは、明治初期に北海道開拓の拠点として、計画的に市街地が整備されたためです。
札幌は、長い時間をかけて自然発生的に街路が形成された都市とは異なり、行政の中心となる都市を新たに建設するという目的のもとで、道路や街区の配置が検討されました。
現在の大通公園と創成川を重要な軸として、道路を東西・南北に交差させる都市構造が形づくられたのです。
碁盤の目とは?札幌中心部の街並みの特徴
「碁盤の目」とは、囲碁で使用する碁盤の線のように、道路が縦横に交差して四角い区画を形成する街路構造を指します。
札幌では、特に中央区の都心部で、この特徴をはっきり確認できます。
- 東西方向と南北方向に延びる直線的な道路が多い
- 道路によって四角形に区切られた街区が連続している
- 「北○条」「南○条」「東○丁目」「西○丁目」という位置表示が広く使われている
- 大通公園や創成川が、街の位置関係を理解する重要な目印になっている
例えば、札幌駅から大通方面へ歩くと、一定の間隔で交差点が現れます。通りの方向が比較的わかりやすく、初めて訪れる観光客でも、地図と住所を照らし合わせながら移動しやすいことが特徴です。
ただし、札幌の道路がすべて正確な正方形の区画になっているわけではありません。実際の街区には大きさや形状の違いがあり、道路の方向も場所によって変化します。
明治時代の都市計画によって生まれた道路網
札幌の街づくりが本格的に始まったのは、明治政府が北海道の開拓を進めた19世紀後半のことです。
1869年(明治2年)、北海道の開拓と行政を担う「開拓使」が設置されました。北海道の行政拠点となる本府の建設地として札幌が選ばれ、計画的な街づくりが進められることになります。
当時の札幌周辺には、アイヌの人々が暮らし、川や湧水などの自然環境を利用してきた歴史がありました。また、幕末には大友亀太郎らによる農地開発や水路の開削も行われていました。
つまり、明治政府が何もない土地に突然街を造ったわけではありません。既存の地形や水路、人々の営みを背景として、新たな行政都市の建設が進められたのです。
札幌の街区整備で重要な役割を果たしたのが、開拓使の判官を務めた島義勇(しま よしたけ)と岩村通俊(いわむら みちとし)です。
島義勇らが札幌本府建設の構想を進め、その後、岩村通俊らが街路や区画の整備を具体化しました。札幌市の歴史資料によると、1871年(明治4年)には、幅11間(約20メートル)の道路を交差させ、基本的に60間(約109メートル)四方を一区画とする街づくりが進められました。
こうして生まれた都市構造が、現在の札幌中心部に見られる碁盤の目の原型となっています。
札幌の都市計画の歴史については、札幌市の公式資料でも詳しく紹介されています。
札幌全体が碁盤の目になっているわけではない
札幌といえば碁盤の目の街並みが有名ですが、実は札幌市内のすべての地域が同じ道路構造になっているわけではありません。
中心部から離れると、地形や河川、昔からの道路、住宅地の開発時期などによって、曲線道路や斜めに交差する道路も増えていきます。
例えば、円山や藻岩山周辺では山麓の地形に沿った道路が見られます。また、豊平川の周辺では河川の流れや橋の位置が道路配置に影響しています。
東区の一部には、開拓期以前の水路や農地開発の名残と考えられる斜めの道路も残されています。
札幌観光協会の公式観光サイト「ようこそさっぽろ」では、かつての大友堀と現在の創成川、周辺に残る道路の歴史を紹介しています。

地図で札幌市内を広く眺めると、中心部の規則正しい街路と、周辺部の多様な道路構造の違いがよくわかります。
札幌の碁盤の目は、都市全体に一律に広がるものではなく、明治初期に計画された中心市街地を象徴する特徴なのです。

札幌の碁盤の目はいつ、誰が作ったのか?
札幌の碁盤の目の街並みは、一人の人物によって一度に完成したものではありません。
明治初期の開拓使による構想から始まり、複数の人物が計画を引き継ぎながら、道路や建物、行政施設の整備が進められました。
その歴史を理解するには、まず北海道開拓と札幌本府建設の背景を知る必要があります。
北海道開拓と札幌本府建設の始まり
1869年(明治2年)、明治政府は北海道の開拓を推進するため、開拓使を設置しました。
当時、北海道では農業や産業の振興、交通網の整備、行政機能の強化などが重要な課題となっていました。対外関係や北方の安全保障も、政府が北海道開拓を重視した背景の一つです。
その中心となる行政拠点をどこに設けるかが検討され、石狩平野に位置する札幌が選ばれました。
札幌周辺は、豊平川や石狩川の水系と関係が深く、内陸部への交通や将来の市街地拡張を考えるうえでも重要な場所でした。
こうして札幌には、行政施設だけでなく、道路、住宅、商業施設などを計画的に配置する新しい都市づくりが求められることになったのです。
北海道庁旧本庁舎(赤れんが庁舎)の展示ガイドでも、札幌本府建設の経緯や島義勇の構想が紹介されています。
島義勇が描いた札幌の街づくり構想
札幌の都市計画を語るうえで欠かせない人物が、開拓使判官の島義勇です。
島義勇は佐賀藩出身で、1869年(明治2年)に札幌本府の建設を担当しました。札幌の地形や周辺環境を調査し、北海道の行政中心地となる新しい街の建設を構想した人物として知られています。
島が円山方面の高台から札幌の平野を眺め、将来の都市の姿を思い描いたという逸話は、札幌開拓の歴史を象徴するものとして語り継がれています。
ただし、島義勇が現在の札幌の道路をすべて設計し、完成させたわけではありません。
島は本府建設の初期構想を担いましたが、在任期間は短く、街づくりの事業は後任者たちへ引き継がれました。
島義勇の功績は、札幌を北海道の中心都市として発展させるための構想を示し、その後の都市建設につながる重要な出発点を築いたことにあります。
そして、その構想を実際の道路や街区として具体化していった人物の一人が、岩村通俊でした。
開拓使による都市計画と街区整備の進展
島義勇が札幌本府建設の構想を進めた後、その計画を引き継ぎ、街路や区画の整備を推進した人物の一人が、開拓使の岩村通俊(いわむら みちとし)です。
岩村通俊は、1871年(明治4年)から札幌の街づくりに携わり、道路や行政施設、住宅地などの整備を進めました。
当時の札幌では、行政の中心となる本府を建設するため、街を一定の区画に分け、道路を規則正しく配置する計画が進められていました。
その基本となったのが、東西方向と南北方向に道路を交差させ、四角形の街区を形成する都市構造です。
初期の街区整備では、おおむね60間(約109メートル)四方を一区画とし、道路幅を11間(約20メートル)とする計画が採用されました。ただし、すべての街区や道路が一律にこの寸法で整備されたわけではなく、その後の都市の発展に伴って変更された場所もあります。
このような計画的な街づくりによって、建物の配置や土地の管理がしやすくなり、行政施設や商業施設、住宅地を整備する基盤が形成されました。
現在の札幌中心部に見られる碁盤の目の道路網は、こうした明治初期の都市計画を出発点として、長い年月をかけて発展してきたものです。
札幌の街づくりの歴史については、札幌市公文書館が公開する資料も参考になります。

札幌の都市計画に隠された歴史と工夫
札幌の碁盤の目は、単に道路をきれいに並べるために造られたものではありません。
行政都市としての機能を確保し、火災への備えや交通、土地利用などを考慮しながら街づくりが進められました。
その特徴を理解するうえで重要なのが、大通公園と創成川です。
現在は札幌を代表する観光スポットとなっているこれらの場所にも、開拓期の都市計画の歴史が刻まれています。
大通公園の原点は南北を分ける火防線
札幌市の中心部を東西に延びる大通公園。四季折々の花々やイベントで知られる観光名所ですが、その始まりは現在のような公園ではありませんでした。
1871年(明治4年)、札幌の街づくりが進められるなかで、市街地の中央に幅の広い空間が設けられました。
この空間は、火災が発生した際に延焼を防ぐための火防線(かぼうせん)として整備されたものです。
当時の建物は木造が中心であり、一度火災が発生すると周囲へ燃え広がる危険がありました。そこで、市街地の中央に幅の広い空間を確保し、火災の拡大を抑えることが考えられたのです。
大通の火防線は、幅約105メートルという広大なものでした。
また、大通は札幌の市街地を南北に分ける重要な境界としても機能しました。
当初の都市計画では、大通の北側に官庁や行政施設などを配置し、南側には商業地や住宅地を整備する構想がありました。
現在でも札幌中心部の住所に「北○条」「南○条」という区分があるのは、こうした街づくりの歴史と深く関係しています。
その後、大通は植栽や園路などの整備が進められ、市民が憩う緑地へと変化していきました。
現在では「さっぽろ雪まつり」や「さっぽろオータムフェスト」など、北海道を代表するイベントの会場としても親しまれています。

大通公園の歴史や施設については、公式サイトでも詳しく紹介されています。
観光で大通公園を訪れた際には、東西にまっすぐ延びる広い緑地を眺めながら、かつてここが札幌の街を火災から守るための空間だったことを思い出してみてください。
創成川が札幌の東西を分ける基準になった理由
大通公園が札幌中心部の南北を分ける軸であるのに対し、東西の位置関係を理解するうえで重要なのが創成川(そうせいがわ)です。
創成川は、札幌中心部を南北方向に流れる人工的な水路を起源としています。
その歴史は明治時代の札幌本府建設よりも古く、1866年(慶応2年)に大友亀太郎が開削した水路「大友堀」にさかのぼります。
大友亀太郎は、現在の札幌市東区周辺で農地開発を進め、水を引くための水路を整備しました。
この水路は、その後の開拓使による札幌の街づくりにも活用され、改修や延長を経て創成川へとつながっていきました。
札幌の都市計画では、創成川が東西の位置関係を示す重要な基準となり、現在の「東○丁目」「西○丁目」という住所表示にも関係しています。
例えば、札幌中心部では創成川を境に東側が「東」、西側が「西」となり、離れるにつれて丁目の数字が大きくなります。
そして、大通と創成川が交差する付近は、札幌の条丁目の仕組みを理解するうえで重要な場所です。
現在、創成川沿いには「創成川公園」が整備され、市民や観光客が散策できる空間となっています。
創成川公園を歩くと、近代的なビルが立ち並ぶ街の中に、札幌の開拓期から続く水路の歴史を感じることができます。
創成川公園の施設や歴史については、公式サイトを参考にしてください。
広い道路と整然とした街区が生まれた背景
札幌を訪れた人が驚くことの一つに、中心部の道路の広さがあります。
札幌駅周辺や大通周辺では、複数車線の道路や幅の広い歩道が整備されており、街全体に開放感があります。
こうした道路の特徴には、明治初期から進められた計画的な街づくりが関係しています。
開拓使による都市計画では、道路と街区をあらかじめ配置し、行政施設や住宅地などを整備することが重視されました。
道路を広く確保することは、人や物資の移動だけでなく、建物の配置や市街地の形成にも関係する重要な要素でした。
また、当時は馬車や荷車などによる輸送が行われており、道路は開拓地を支える交通基盤としての役割を担っていました。
さらに、火災への備えという観点からも、道路や空地の配置は重要でした。
ただし、現在の札幌の道路が広い理由を、積雪対策だけで説明することはできません。
札幌は世界有数の積雪都市として知られていますが、明治初期の道路計画と、後年の除雪・排雪を考慮した道路整備は、時代背景を分けて理解する必要があります。
現在では、冬期間の除雪や排雪、歩行者の安全確保なども道路管理における重要な課題となっています。
つまり、札幌の広い道路は、明治時代の計画的な都市建設を出発点として、交通や防災、雪国特有の都市機能に対応しながら発展してきたものといえるでしょう。
現在の札幌に残る明治時代の都市計画
明治初期に始まった札幌の都市計画は、150年以上が経過した現在でも、街の基本的な構造に大きな影響を与えています。
その代表的な特徴が、次の4つです。
- 碁盤の目状の道路網:東西・南北方向に延びる道路が、中心市街地の基本的な構造となっている
- 大通公園:火防線として設けられた広い空間が、現在は市民の憩いの場や観光名所になっている
- 創成川:開拓期以前の水路を起源とし、札幌の東西を分ける重要な基準となっている
- 条丁目の住所表示:道路や街区の配置と結びついた、札幌中心部のわかりやすい位置表示が受け継がれている
これらの特徴は、それぞれ独立しているわけではありません。
大通と創成川を中心に、道路や街区が配置され、その位置関係を表す住所の仕組みが整えられてきました。
現在の札幌は、高層ビルや地下鉄、地下歩行空間などが整備された近代的な都市ですが、地図を眺めると、明治時代の都市計画の骨格が今も残っていることがわかります。
特に、札幌駅から大通公園、すすきの方面へと続く中心市街地は、札幌の都市計画の特徴を実際に感じられるエリアです。
札幌を観光する際には、建物や観光施設だけでなく、道路の向きや交差点の配置にも注目してみてください。
何気なく歩いている街角にも、北海道開拓の歴史と、都市を計画した人々の工夫が隠されているのです。
札幌の碁盤の目は京都をまねたもの?
碁盤の目状の街並みと聞いて、札幌と並んで思い浮かぶ都市が京都です。
京都の中心部にも、東西・南北に道路が交差する整然とした街並みが広がっています。そのため、「札幌は京都をモデルにして造られたのでは?」と考える人もいるでしょう。
しかし、札幌と京都は街路の形こそ似ていますが、都市が成立した時代や街づくりの目的には大きな違いがあります。
両都市の共通点と相違点を知ることで、札幌の碁盤の目が持つ独自の特徴が見えてきます。
札幌と京都の街並みに見られる共通点
札幌と京都の大きな共通点は、都市の中心部に格子状の道路網が形成されていることです。
京都では、794年(延暦13年)に造営された平安京が、東西・南北の道路を規則正しく配置した都市として知られています。
一方、札幌では明治時代の北海道開拓に伴い、行政の中心となる都市を建設するため、道路や街区が計画的に整備されました。
両都市の共通点を整理すると、次のようになります。
- 格子状の道路網:東西方向と南北方向に延びる道路が交差し、四角形の街区を形成している
- 計画的な都市形成:都市の中心部が、一定の構想に基づいて整備された歴史を持つ
- 位置を示す仕組み:通りや街区の配置が、場所を把握するための手がかりになっている
- 歴史的な都市構造:時代とともに建物や交通手段が変化しても、街路の基本的な配置が受け継がれている
このように、札幌と京都は、計画的に造られた都市の特徴を現在の街並みに残しているという点で共通しています。
ただし、碁盤の目という街路構造は京都だけに見られるものではありません。日本国内では、古代の都城や近世の城下町などにも、格子状の道路配置が採用された例があります。
そのため、道路が碁盤の目になっているという共通点だけで、札幌が京都を直接模倣したと判断することはできません。
京都と札幌では都市が造られた時代と目的が違う
札幌と京都の都市計画を比較する際に重要なのが、街が造られた時代と目的の違いです。
京都の原型となった平安京は、794年に都が移されたことによって成立しました。天皇の住む宮城を中心とする都城として計画され、政治や行政、儀礼などの機能を担っていました。
これに対して札幌は、明治政府が北海道の開拓を推進するため、19世紀後半に行政拠点として整備した都市です。
札幌の都市計画では、行政施設や住宅地、商業地の配置に加え、道路交通や防災など、近代的な都市運営に必要な機能が重視されました。
| 比較項目 | 札幌 | 京都 |
|---|---|---|
| 都市形成の主な時代 | 明治時代(19世紀後半) | 平安時代(8世紀末) |
| 計画の主な目的 | 北海道開拓の行政拠点の整備 | 国家の都としての都市建設 |
| 街路構造 | 中心部に格子状の道路網 | 平安京を起源とする格子状の街路網 |
| 位置表示の特徴 | 北・南の条と東・西の丁目 | 通り名や交差点を利用した案内 |
| 都市の象徴的な軸 | 大通・創成川 | 古代の朱雀大路など |
なお、現在の京都の街並みは、平安京の都市計画がそのまま完全に残っているわけではありません。中世以降の市街地形成や豊臣秀吉による都市改造など、さまざまな時代の変化を経て現在の姿になっています。
札幌も同様に、明治初期の計画を基本としながら、その後の人口増加や交通網の整備によって発展してきました。
両都市は、異なる時代の都市計画が現代の街並みに影響を与えている例といえるでしょう。
札幌の都市計画に京都の影響はあったのか?
では、札幌の碁盤の目は、京都の街並みを参考にして造られたのでしょうか。
札幌の都市計画については、京都のような格子状の都市構造との類似性がしばしば指摘されます。
しかし、札幌の街路が碁盤の目になった理由を「京都をまねたから」とだけ説明するのは正確ではありません。
札幌では、北海道開拓の行政拠点を新たに建設するという具体的な目的があり、開拓使の関係者が街路や街区の配置を検討しました。
日本では古くから格子状の都市計画が知られていた一方、近代の都市建設では土地利用や交通、防災などの実務的な条件も重要になります。
札幌の街づくりも、こうした歴史的な都市計画の考え方や、当時の北海道の状況を背景として進められたと考えるのが適切でしょう。
京都からの直接的な影響の程度については、計画当時の記録や研究成果を確認する必要があり、街並みが似ていることだけで断定することはできません。
札幌の都市計画をより深く知りたい場合は、札幌市公文書館が公開する歴史資料や、札幌市の文化財関連資料が参考になります。

札幌と京都の違いを知ると、碁盤の目という共通した街路構造の中にも、それぞれの都市が歩んできた歴史が反映されていることがわかります。
札幌の住所はなぜ「北○条西○丁目」なのか?
札幌の街を歩いていると、「北3条西4丁目」「南1条西3丁目」といった住所表示を目にします。
札幌市民にとっては身近な表現ですが、初めて訪れる観光客にとっては、少し不思議な住所の仕組みに感じられるかもしれません。
実は、この「北・南・東・西」と「条・丁目」を組み合わせた位置表示も、札幌中心部の碁盤の目状の街並みと深く関係しています。
大通と創成川を基準にした条丁目の仕組み
札幌中心部の住所を理解するうえで、まず覚えておきたいのが大通と創成川です。
大通は東西方向に延び、創成川は南北方向に流れています。
この2つを基準として、札幌中心部では北・南の条と、東・西の丁目によって場所を表す仕組みが使われています。
- 北○条:大通から北側に向かうにつれて数字が大きくなる
- 南○条:大通から南側に向かうにつれて数字が大きくなる
- 東○丁目:創成川から東側に向かうにつれて数字が大きくなる
- 西○丁目:創成川から西側に向かうにつれて数字が大きくなる
例えば「北3条西4丁目」であれば、大通から北側に3条、創成川から西側に4丁目という位置関係を表しています。
ただし、これは札幌中心部の位置関係を理解するための基本的な考え方です。実際の住所は街区や道路の配置、地域ごとの町名設定などによって異なる場合があります。
また、大通周辺では「大通西○丁目」「大通東○丁目」という住所も使われています。
このように、札幌の条丁目は、街の位置を比較的直感的に把握できる仕組みになっているのです。
北・南・東・西の住所から場所を読み解く方法
札幌の住所の特徴を知っておくと、観光や街歩きの際にも役立ちます。
例えば、札幌市時計台の所在地は「札幌市中央区北1条西2丁目」です。
この住所から、時計台は大通より北側、創成川より西側に位置していることがわかります。
また、札幌市役所の所在地も「札幌市中央区北1条西2丁目」です。時計台と札幌市役所は同じ条丁目にあり、近い位置関係にあることが読み取れます。
別の例として、札幌市中央区の「南4条西4丁目」は、すすきのの中心部に近いエリアです。
この住所を見れば、大通から南へ進み、創成川より西側にある場所だと理解できます。
札幌中心部では、条丁目の数字を見ながら目的地へ向かうことで、おおよその方向や距離を把握しやすくなります。
ただし、同じ条丁目でも複数の建物が存在するため、最終的な目的地を探す際には建物名や番地、地図アプリなども確認しましょう。
また、札幌市内には「北○条西○丁目」のような条丁目表示ではなく、独自の町名や番地を使用している地域もあります。
札幌の住所の仕組みを理解することは、単に道に迷わないためだけでなく、街の成り立ちを知ることにもつながります。
碁盤の目なのに迷う?札幌の住所と道路の注意点
札幌中心部は碁盤の目状の道路が多く、比較的わかりやすい街並みですが、初めて訪れる人が迷いやすいポイントもあります。
まず注意したいのが、条丁目の数字が必ずしも移動距離を正確に表しているわけではないということです。
道路の幅や街区の大きさは場所によって異なり、同じ「1丁目分」の移動でも、実際の距離が異なる場合があります。
また、札幌には一方通行の道路も多く、車で移動する際には、目的地が近くに見えても直接進めないことがあります。
さらに、冬の札幌では積雪や除雪によって歩道が狭くなったり、交差点付近に雪山ができたりすることもあります。
観光で訪れる際には、次の点に注意すると安心です。
- 住所の条丁目だけでなく、建物名や入口の位置も確認する
- 車で移動する場合は、一方通行や右左折禁止などの交通規制に注意する
- 冬は積雪や路面凍結を考慮し、移動時間に余裕を持つ
- 地下街や地下歩行空間を利用する場合は、地上の出口番号を確認する
- 中心部から離れた地域では、条丁目の規則性だけに頼らず地図を確認する
特に札幌駅から大通、すすきの方面へ移動する場合は、地下歩行空間や地下街を活用すると、天候に左右されにくく快適に移動できます。
札幌駅前通地下歩行空間「チ・カ・ホ」は、札幌駅周辺と大通方面を結ぶ地下通路で、札幌中心部の移動に便利な施設です。
札幌の碁盤の目と条丁目の仕組みを理解しておけば、観光地を巡る際にも、街の位置関係を把握しやすくなるでしょう。
そして、道路や住所の仕組みに注目しながら歩くことで、普段は見過ごしてしまう札幌の歴史にも気づくことができます。

札幌の街並みで碁盤の目を実感できる場所
札幌の碁盤の目の歴史を知ったら、実際に街を歩いて、その特徴を確かめてみましょう。
札幌中心部には、明治時代の都市計画の名残を感じられる場所が数多くあります。
特に大通公園、創成川公園、札幌市時計台周辺、JRタワー展望室は、札幌の街づくりを異なる視点から理解できるスポットです。
地上から道路の配置を観察したり、高い場所から街全体を見渡したりすることで、札幌の都市計画がより身近に感じられるでしょう。
大通公園|札幌の都市計画を象徴する東西の軸
札幌の碁盤の目を理解するうえで、最初に訪れたい場所が大通公園です。
大通公園は、札幌市中央区の大通西1丁目から大通西12丁目にかけて、東西約1.5キロメートルに延びる都市公園です。
現在は花壇や芝生、噴水などが整備され、市民や観光客の憩いの場となっています。しかし、その原点は1871年(明治4年)に設けられた火防線でした。
大通は、火災の延焼を防ぐための広い空間であると同時に、札幌の市街地を南北に分ける重要な軸でもありました。
公園内から東西方向を眺めると、まっすぐ延びる緑地と、それに沿って整備された道路の配置を確認できます。
また、大通公園の周辺では、南北方向に延びる道路が規則正しく交差しており、碁盤の目状の街並みを実感できます。
おすすめの観察ポイントは、大通西3丁目から大通西4丁目付近です。札幌市中心部のビル群と大通公園の広い空間を同時に眺められます。
観光で訪れる際には、公園そのものの景観だけでなく、交差する道路の方向や街区の形にも注目してみてください。
所在地:北海道札幌市中央区大通西1~12丁目
アクセス:地下鉄「大通駅」からすぐ
見学の目安:約20~40分(散策範囲による)
大通公園の歴史やイベント情報は、公式サイトで確認できます。
創成川公園|街の東西を分ける歴史的な境界
札幌の碁盤の目を理解するうえで、大通公園と並んで重要なのが創成川公園です。
創成川は札幌中心部を南北に流れる川で、その起源は1866年(慶応2年)に大友亀太郎が開削した大友堀にさかのぼります。
明治時代の札幌の都市計画では、この水路が街の東西を分ける重要な基準となりました。
現在、創成川沿いには散策路や緑地が整備され、都心部にありながら水辺の景観を楽しめる場所となっています。
特に大通と創成川が交差する付近は、札幌の条丁目の仕組みを理解するうえで興味深い場所です。
創成川を挟んで東側と西側の街並みを見比べると、住所表示の「東○丁目」「西○丁目」が、実際の地理とどのように結びついているのかをイメージしやすくなります。
また、創成川周辺には、札幌の開拓期から続く歴史を紹介する案内板や記念的な施設もあります。
街の中心を流れる一本の川が、現在の札幌の住所や都市構造にも関係していることは、札幌の街づくりを知るうえで大きな発見になるでしょう。
所在地:北海道札幌市中央区南4条東1丁目~北1条西1丁目付近
アクセス:地下鉄「大通駅」または「バスセンター前駅」から徒歩圏内
見学の目安:約15~30分
創成川公園の施設情報や歴史については、公式サイトを参考にしてください。
札幌市時計台周辺|開拓期の街並みを感じるエリア
札幌の開拓期の歴史を身近に感じられる場所として、札幌市時計台もおすすめです。
札幌市時計台は、1878年(明治11年)に札幌農学校の演武場として建設された歴史的建造物です。
札幌農学校は、現在の北海道大学の前身にあたる教育機関であり、北海道の近代化を支える人材の育成に大きな役割を果たしました。
時計台は現在の北1条西2丁目に位置しており、周囲には近代的なオフィスビルが立ち並んでいます。
歴史ある木造建築と現代の都市景観が共存する姿は、札幌が明治時代の開拓都市から大都市へと発展してきたことを象徴しています。
時計台の周辺を歩くと、東西・南北に延びる道路や、四角形に区切られた街区の様子を確認できます。
また、時計台の館内には、札幌農学校や時計台の歴史に関する展示があります。札幌の近代史に興味がある人は、外観の見学だけでなく館内展示も楽しむとよいでしょう。
ただし、時計台の建設時期は札幌本府建設の開始より後であり、時計台そのものが碁盤の目の道路を設計した施設というわけではありません。
札幌の計画的な街づくりが進んだ後に建てられた歴史的建造物として、都市の発展を考える手がかりになります。
所在地:北海道札幌市中央区北1条西2丁目
アクセス:地下鉄「大通駅」から徒歩約5分
見学の目安:外観約10分、館内を含める場合は約30~45分
開館時間や入館料などの最新情報は、札幌市時計台の公式サイトで確認してください。
JRタワー展望室|碁盤の目の街並みを上空から眺める
札幌の碁盤の目を最もわかりやすく実感できる方法の一つが、街を高い場所から眺めることです。
その候補となるのが、JR札幌駅に直結するJRタワー展望室 T38です。
JRタワーの38階に位置する展望室からは、札幌中心部の街並みを広い範囲にわたって見渡せます。
地上を歩いていると、建物によって道路の先が見えないこともあります。しかし、高い場所から眺めると、東西・南北に延びる道路が交差し、建物が規則正しく配置されている様子を確認しやすくなります。
特に札幌駅周辺から大通方面に広がる市街地は、碁盤の目状の道路網を観察するのに適しています。
また、天候がよければ、札幌の市街地と周囲の山々との位置関係も眺められます。
札幌中心部の整然とした街並みと、郊外の地形に沿って広がる市街地を比較すると、道路構造の違いにも気づくでしょう。
なお、展望室から見える景色は天候や視界の状態によって変わります。また、施設の営業状況や入場条件については、訪問前に最新情報を確認してください。
所在地:北海道札幌市中央区北5条西2丁目
アクセス:JR「札幌駅」直結
見学の目安:約30~60分
JRタワー展望室の最新情報は、公式サイトで確認できます。
これらのスポットを巡るなら、JR札幌駅周辺から時計台、大通公園、創成川公園へと歩くルートがおすすめです。
札幌の歴史的な建物と街路の配置を一緒に観察できるため、一般的な観光とは少し違った視点で街歩きを楽しめます。
札幌の碁盤の目に関するよくある質問
ここでは、札幌の碁盤の目や都市計画について、よくある疑問をまとめました。
札幌の碁盤の目は誰が考えたのですか?
札幌の都市計画の初期構想に関わった代表的な人物が、開拓使判官の島義勇です。
島義勇は1869年(明治2年)に札幌本府建設を担当し、北海道の行政中心地となる都市の建設を構想しました。
その後、岩村通俊らが街路や街区の整備を進め、現在の札幌中心部につながる碁盤の目状の都市構造が形成されました。
したがって、札幌の碁盤の目は、一人の人物だけが完成させたものではなく、開拓使の関係者による計画と整備の積み重ねによって生まれたものです。
札幌は本当に京都をモデルにしたのですか?
札幌と京都は、中心部に格子状の道路網が広がっているという共通点があります。
しかし、札幌の街並みが京都を直接モデルとして設計されたと断定することはできません。
京都は古代の都城として造られた都市であるのに対し、札幌は明治時代に北海道開拓の行政拠点として整備された都市です。
碁盤の目という街路構造は、京都以外の都市にも見られます。札幌の都市計画については、当時の開拓政策や土地利用、交通、防災などの条件を踏まえて理解することが重要です。
札幌の道路はなぜ広いのですか?
札幌中心部の道路が比較的広く整備されている背景には、明治初期から進められた計画的な都市建設があります。
開拓使は、行政施設や住宅地、商業地を配置するため、道路と街区をあらかじめ計画しました。
また、道路は人や物資の移動を支える交通基盤として重要な役割を担っていました。
その後、札幌が大都市へと発展するなかで、交通量の増加や歩行者の安全確保、冬期間の除雪・排雪などに対応した道路整備が進められています。
札幌の道路の広さは、明治時代の都市計画と、その後の都市の発展が重なって形成されたものといえるでしょう。
札幌で碁盤の目になっていない地域はどこですか?
札幌市内のすべての地域が碁盤の目状になっているわけではありません。
特に山麓部や河川周辺、開発時期の異なる住宅地では、地形や土地利用に合わせた道路が見られます。
例えば、円山や藻岩山の周辺には、山の地形に沿って曲がる道路があります。また、豊平川の周辺では、河川や橋の位置に応じて道路の方向が変化しています。
札幌中心部の碁盤の目と、こうした周辺地域の道路構造を地図で比較すると、都市が発展してきた過程をより深く理解できます。
まとめ|札幌の碁盤の目には北海道開拓の歴史が刻まれている
札幌の街が碁盤の目状になっているのは、明治時代に北海道開拓の行政拠点として、計画的な都市建設が進められたためです。
島義勇が札幌本府建設の初期構想を担い、その後、岩村通俊らが街路や街区の整備を進めました。
その過程で、大通は市街地を南北に分ける火防線として整備され、創成川は東西の位置関係を示す重要な基準となりました。
現在も札幌中心部に残る碁盤の目の道路網や「北○条西○丁目」という住所表示は、こうした歴史的な都市計画と深く結びついています。
また、札幌と京都は格子状の街並みという共通点を持っていますが、都市が造られた時代や目的は異なります。
札幌の碁盤の目は、京都との類似性だけでなく、北海道開拓という歴史的背景から理解することが大切です。
今回紹介したポイントを振り返ってみましょう。
- 札幌の碁盤の目は、明治初期の計画的な都市建設によって形成された
- 島義勇が札幌本府建設の初期構想を担い、岩村通俊らが街区整備を進めた
- 大通公園の原点は、市街地の延焼を防ぐための火防線だった
- 創成川は大友堀を起源とし、札幌の東西を分ける基準となった
- 「北○条西○丁目」という住所表示は、碁盤の目状の街並みと関係している
- 札幌と京都は街路構造が似ているものの、都市建設の時代と目的が異なる
- 札幌中心部の道路構造は、現在も明治時代の都市計画の特徴を残している
普段何気なく歩いている札幌の道路も、その成り立ちを知ると、これまでとは違った景色に見えてくるかもしれません。
次に札幌を訪れる際には、大通公園や創成川、札幌市時計台周辺を歩きながら、道路の向きや街区の配置にも目を向けてみてください。
札幌の碁盤の目は、単なる便利な道路網ではなく、北海道開拓の歴史と都市を造り上げた人々の構想を今に伝える、街そのものの歴史遺産なのです。


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